名曲聴いて、何になる?

クラシックの名曲って、何の役に立つんだ?

風向き (1)

風向き (1)


 丘一郎と亜弥の息子・洋一が十歳になり
土星の輪っかを見るから、ちゃんとした望
遠鏡が欲しい)
などと言い出した頃、丘一郎は相変わらず出
勤日の九割五分を秘書室にぽつねんとして過
ごす毎日を送っていた。

残りの五分というのは、入社試験の準備に関
わる事務作業の一部と筆記試験の監督や採点
など……という春先限定の仕事だった。それ
らもいちいち社長が許可したものだ。

会社は少しづつ大きくなっており少し離れた
場所に土地を借りて仮社屋を建て、そこで臨
時雇いのビル清掃員の事務手続きや常駐管理
員の研修なども始めていた。

慢性的に人手が足りず清掃員だけでなく日勤
オフィスビル管理者を正式に自社で募集し
始めると、本部(仮社屋に対してそう言って
いた)では人事部門の人手を増やし採用面接
や業務説明会などを頻繁に行うようになった。


あるとき、本部に十人もいなかった女子職員
のひとりが相当に慌てた様子で秘書室の扉を
ノックしたことがあった。

「あの、すみません! 三階の会議室でやる
予定だった説明会、四階で二部屋に分けてや
ることになっちゃって。いま大急ぎで机とか
並べてるんですが、手伝ってもらえません?」

丘一郎はこのとき
(日本の作曲家がクラシック音楽のスタイル
で日本の伝統的な楽器を上手く使えたからと
いって、それで果たして日本人がずっとクラ
シック音楽を聴いたり演奏したり作曲したり
してきたことの意義が……部分的にであれ……
果たされたみたいに喜ぶのはおかしいのでは
ないか?)
と考えていた。

前衛音楽の嵐が吹き荒れた……と言われる六
十年代のあと、こんなの誰が聴くんだとクサ
されていたような無調あるいはそれに近い音
楽も映画やドラマ、デレビのドキュメンタリ
ー番組などのBGMとしては多いに認められ、
八十年代も終わる頃にはシュトックハウゼン
やイーノはすでに巨匠の扱い……という風潮
の中で、

自分の金で買えるレコードの範囲で音楽を追
いかけている丘一郎は、ずいぶん遅ればせに
そういうことを考えていた。

「分かりました。お手伝いします」
立ち上がって上着を脱いだ丘一郎は、その女
子社員のあとについててんやわんやの会場に
入っていった。


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