名曲聴いて、何になる?

クラシックの名曲って、何の役に立つんだ?

その死 (2)

その死 (2)

この日の昼間、空が劇的だったことをなぜか
丘一郎は思い出していた。

空がドラマチックに見える、ということがあ
るのだ。それは単に、嵐で雲がちぎれ飛ぶと
いうような意味での劇的ではなくて、

こちらに低い空の雲もあれば向こうに高い空
の雲もあり、平板に見える雲があれば立体的
で彫刻のような雲もあり、

陽光にぎらっと輝いている雲もあれば、くす
んで陰になりながらそれに纏わり付いている
雲もあり……というように

あらゆる種類の雲が一堂に会した印象で、そ
れでいて空全体があくまで広く明るい。そう
いう空を見上げ、これはどういう種類の胸騒
ぎなのか、と考えたことを丘一郎は思い出し
ていた。

「そうなったらおれの所へ来てくれ」
末光社長は手を伸ばして名刺を一枚、丘一郎
の胸ポケットに差し入れた。

末永社長の動作はゆっくりしていたのだから、
丘一郎は自分の手でその名刺を受け取ること
が出来たはずだ。なのに、どうしてだか動け
なかった。

「やってもらうことは同じだ。……ああ、で
もスケッチを描かせるなんてのはこっちの趣
味じゃない」
丘一郎は深く頭を下げていた。

「最初の一枚は松村禎三のピアノ・コンチェ
ルトにしよう。あいつにもらったんだよ。ま
だレコードの時代に」

それは初耳だったし、丘一郎はそもそも片桐
社長とさえ現代音楽の話をしたことがあった
かどうか、はっきりと記憶にない。

そういう丘一郎の胸の内を察したのかどうか
末永社長は言った。
「名前が同じだから買ってみたら、こりゃあ
歯が立たんってすぐに降参したらしい。おれ
はそういう話を聞いたら、最初は気に食わな
くても逆に意地になって、好きになるまでし
つこくしつこく聴く方なんだ」

この一言は丘一郎の胸にしみた。彼がまた受
付に戻ると、亜弥がいて
「誰だっけ、あの人?」
と聞いてきた。

知っているのかと聞き返すと亜弥は言った。
「結婚式で見ただけだけど」
「結婚式?」
「そうよ。あたしたちの」
そこでいっぺん見ただけの末光社長を、亜弥
はしっかり記憶していたということだ。

「禎三さんの親友だよ。まぁ、話せば長くな
るから、帰ってから」
丘一郎がそう言うと亜弥は笑った。
「禎三さんに縁のある人は、みんな『話せば
長くなるヒト』なんだよ」


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