名曲聴いて、何になる?

クラシックの名曲って、何の役に立つんだ?

その記憶 (2)

その記憶 (2)

「待ったか? 園部」
重ね着した厚ぼったい綿シャツに毛玉だらけ
の黒マフラーをぐるぐる巻きにしたジーンズ
姿の古澤忠夫が丘一郎の肩を叩いた。

古澤はT県の高校で丘一郎と同級生だったが、
一浪して同じ大学に入ったのでまだ3年であ
り、遊び呆けている。

〈↑そういう時代があったんだよ。〉


なぜまたこんな時期に古澤は会おうなどと言
ってきたのか? 年末から正月にかけての休
みの間に地元で会うのなら分かるが、なぜ今
頃なのか?

どうせ就職のことを聞いてくるんだろうと思
い、いったんは断ろうと思った丘一郎だが、
この男が去年の夏頃からクラシック音楽を聴
き始めたのを思い出して会ってみる気になっ
た。

「先週なあ、ついに聴いたぞ。お前が言って
たベートーベン」
「え。ベートーベン? ベートーベンって…
…何だっけ?」
「何だっけじゃねえよ! あれだけ人に熱く
語っておいて、自分じゃ忘れてんのか」
「いつの話だ、それ?」
「お前をホラ、写真部の部室に案内してやっ
たじゃないの。あのときだよ」

言われて丘一郎は思い出した。去年の十月頃、
大学の構内でばったり顔を合わせたとき古澤
がカメラを持っていたので、つい写真部のこ
とにも話が及び
「部室はどこなの?」
と、確かに丘一郎の方から尋ねた記憶がある。

案内されて部室に入ると古澤の後輩たちがい
て、そこで思いがけずクラシック音楽談義に
なった。

ベートーベンの、嬰ハ短調弦楽四重奏曲16番
のぶっ飛んだスタイルと楽想について話し出
すと、丘一郎はいつも熱くなるのだった。


「あの曲はたしかに『浸れる』よな。オレが
お前と同じことを感じたのかどうかまでは分
からんが、それでも何かどっぷり湯船に浸か
ったような気分になったぞ」
「そうか」
「ただしなぁ」
「?」

「どっぷり浸ったあとに、すぐに腰が上がら
ないというか。魂が半分体を抜け出してると
いうか、イイ意味で腑抜けになっちゃうと言
うか」
「ほう。そこまで没入出来たのか。そこまで
音楽が染み通ったんなら、立派なもんだ」

「うん。実はおれも密かにそう思ってる。し
かしだよ、同時にこういうことも考える」
「なにを?」
「おれら、アジア人じゃねえか、って」

丘一郎は面食らった。いつも気楽そうで、ま
ず思慮深げには見えないこの男が、そんな本
質問題を言い出すとは思ってもみなかった。

「欧米の白人がベートーベンに感心したんな
ら、そりゃ良い趣味だねって、それで済むん
だろうが、こちとらアジア人でえ」
「古澤……お前、その話でおれを呼び出したんか?」
「おお」

丘一郎は、この元クラスメイトを見直した。
しかし、風はそれほど強くないものの、こう
して外での立ち話はなかなかキツい。どこか
茶店に入ろうということになって歩き出し、
丘一郎はもう一つ気になっていたことを尋ね
た。


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