名曲聴いて、何になる?

クラシックの名曲って、何の役に立つんだ?

その記憶 (3)

その記憶 (3)


「ところで、何で待ち合わせが上野なんだ?」
「ああ。やっぱりお前は、それも忘れてるん
だな」
「え」
レコード屋だよ、中古の! お前がいつも
レコード漁りに来る店があるから教えるって
……簡単に忘れるなあ、お前」

「そうだっけ?」
「そうだよ!」
「ははは」
その日、古澤と声がかすれるほどしゃべり合
って安食堂の大盛りカレーを食うと、丘一郎
はかなり気分が良くなった。

彼は古澤を蓄好堂という中古レコード屋に案
内し、自分ではブルーノ・ワルター&ニュー
ヨークフィルの擬似ステレオ版マーラー第4
シンフォニーを買い、古澤はロジェストヴェ
ンスキー&モスクワ・ラジオフィルのプロコ
フィエフ第5シンフォニーを買って別れた。


最後まで就職の「し」の字も口にしなかった
古澤の株は、丘一郎の中で多いに上がった。

で、狭苦しくわびしいねぐらに戻った丘一郎
の目に飛び込んできたものがある。集合ポス
トの彼の区画から大判の封筒がはみ出してい
たのだ。

さっそくそれを取り出そうとして
(あっ、これは……)
と気づいたときの、あの泥沼にずるずると半
身が沈み込んで行くように嫌な気分を丘一郎
は今だに忘れない。

それは丘一郎自身がほんの二日前に差し出し
た「履歴書在中」の封筒だった。
(見ろ、このザマだ!)

さっきの上機嫌から秒速で冷え冷えとした暗
黒世界に転落しつつ、引っぱり出した封筒を
見れば
(表記の住所には、該当するあて先が見当た
りません)
と赤インクのゴム印がデカデカと押してある。

(まったく、このザマだよ!)
役立たずが頬かむりしてヌケヌケと履歴書を
差し出し
(こんなボクでも、もしかしたらお役に立つ
かも)
みたいな柄にもないポーズをとってはみたも
のの、お天道様はお見通しだった!


もちろんそれは単なる住所の書き間違いであ
り、直すべきところを直して再度投函すれば
それで済む、それだけの話だった。

なのに彼はたったこれだけのことに
(象徴的な意味)
を感じてドーンと打ちひしがれてしまった。
勝手にへたり込んで、ぺしゃんこになってし
まったのだ。


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